神武東征 ~東の空に国を拓く~


神武東征 ~東の空に国を拓く~



 こんにちは。

今日は、日本神話の中でも特に興味深いお話の一つ、**「神武東征(じんむとうせい)」**をブログにまとめてみました。

神武東征は、初代天皇とされる神武天皇が、九州の日向から東へ向かい、さまざまな困難を乗り越えて大和(現在の奈良県)に入り、国を治めるようになったという物語です。

今回は『古事記』と『日本書紀』を参考に、物語の流れを分かりやすく整理します。古典の文章も一部引用しました。

参考資料・確認できるサイト

今回のブログを書くにあたり、特に参考になる資料はこちらです。

  1. 國學院大學「古事記あらすじ」 — 神武東征の流れを確認できます。

  2. 青空文庫・武田祐吉訳『古事記』 — 古事記の原文に基づく現代語訳を読めます。

  3. 国立公文書館「日本書紀」 — 日本書紀の成立や歴史的な位置づけを確認できます。

今回のブログで大切にした点

神武東征は、神話・伝承として書かれた内容と、現在の歴史学で確認できる史実を区別しています。また、古事記と日本書紀の違いも紹介しました。

次は、神武東征の出発点である日向・高千穂から、大和へ至るまでの道のりを照らし合わせて調べました。


そこは神武東征を調べるうえで、とても大切なところです。

神武東征は神武天皇が一人で出発したわけではありません。兄弟や多くの家臣、軍事を担当する人々、船での移動を助ける人々などが関わっています。

特に注目したいのは、神武天皇には兄弟がいて、その兄弟たちと東征について相談し、さらに武力を担う一族や各地の協力者が加わっていたという点です。

『古事記』と『日本書紀』、そして橿原神宮の解説を照らし合わせて、人物ごとに整理してみます。

1. 神武天皇には3人の兄がいた

まず、神武天皇の兄弟関係から見てみましょう。

父は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、母は玉依毘売命(たまよりびめのみこと)です。

4人の皇子が生まれたと伝えられています。

順番

名前

読み方

長男

五瀬命

いつせのみこと

次男

稲氷命

いなひのみこと

三男

御毛沼命

みけぬのみこと

四男

神倭伊波礼毘古命

かむやまといわれびこのみこと

四男の神倭伊波礼毘古命が、後の神武天皇です。

ここで注意したいのが、『古事記』と『日本書紀』の描き方の違いです。

『古事記』では、東征の相談をした人物として、神武天皇と兄の五瀬命の2人が登場します。

一方、橿原神宮の御一代記御絵巻では、兄弟四皇子と諸臣が集まって東征を話し合ったと紹介されています。


さらに、東征の途中で兄弟たちには悲しい運命が待っていました。

  • 五瀬命:大阪方面で長髄彦との戦いに敗れ、矢傷を負い、紀伊国で亡くなる。

  • 稲氷命:熊野灘で海に入り、母の国へ向かったとされる。

  • 御毛沼命:常世国へ渡ったとされる。

  • 神倭伊波礼毘古命:東征を続け、大和で即位する。

つまり、神武天皇は兄弟とともに始めた大きな計画の中で、最後には一人で大和を目指すことになったのです。


2. 東征に参加した主な人物と一族

ここからが、今回特に調べておきたいところです。

神武東征には、神武天皇と兄だけでなく、軍事や移動、交渉などを担う人物が登場します。

① 道臣命(みちのおみのみこと)

大伴氏の祖先とされる人物です。東征における軍事面の重要人物で、宇陀での兄猾討伐や忍坂での戦いなどで活躍します。軍の指揮や作戦を担う将軍のような存在です。

② 大久米命(おおくめのみこと)

久米直・久米部の祖先とされる人物です。道臣命とともに兄猾の討伐に関わり、久米部という軍事集団とも関係しています。『古事記』では大和平定の重要な場面に登場します。

③ 椎根津彦(しいねつひこ)

珍彦(うずひこ)とも呼ばれる人物です。速吸門で神武一行と出会い、船の水先案内をしたと伝えられています。海上交通や航路に詳しい案内役と考えられます。

④ 高倉下(たかくらじ)

熊野で神武一行が危機に陥ったとき、神剣・布都御魂を届けた人物です。東征の最初から同行していた家臣というより、熊野で一行を助けた協力者です。

⑤ 八咫烏(やたがらす)

熊野から大和へ進む際に道を案内した存在です。神々から遣わされた導き手として描かれています。

⑥ 天種子命(あまのたねのみこと)

中臣氏の祖先とされる人物です。日本書紀の東征伝承では宇佐で登場します。祭祀や神事に関係する氏族の祖として知られています。

このほか、久米部という兵士集団も重要です。

國學院大學の古典文化学事業によると、久米部は倭王権の軍事的機能を担った集団で、古事記には大久米命と道臣命がともに武力をもって活躍する姿が描かれています。

國學院大學 古典文化学事業

つまり、神武東征には、単なる旅の仲間ではなく、軍事を担当する集団が存在していたと考えられるわけです。

3. 各地で協力した人物たち

東征の一行には、最初から参加していた人だけではなく、途中で協力した人物もいました。

人物

関係・役割

宇沙都比古

宇佐で一行をもてなした人物

宇沙都比売

宇佐で一行をもてなした人物

椎根津彦

船の水先案内

高倉下

熊野で神剣を届けた人物

八咫烏

熊野から大和への道案内

弟猾(おとうかし)

宇陀で神武側に協力した人物

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)

大和で神武に帰順した人物

特に面白いのが、弟猾と邇芸速日命です。

弟猾は、兄の兄猾が神武を罠にはめようとしていることを知らせました。

また、邇芸速日命は、もともと大和に先に降臨していた神とされ、最後には神武側に従ったと伝えられています。

このように、東征は九州から来た人々だけで戦った物語ではなく、途中の土地の人々や大和の有力者との関係によって展開していく物語でもあります。


4. 神武東征の一行はどのような組織だったのか?

ここまでの人物を整理すると、神武東征の一行は、おおよそ次のような役割で構成されていたと考えられます。

神武東征の組織構成(物語からの整理)

総大将

神倭伊波礼毘古命(神武天皇)

皇族・兄弟

  • 五瀬命

  • 稲氷命

  • 御毛沼命

軍事担当

  • 道臣命

  • 大久米命

  • 久米部

祭祀・神事関係

  • 天種子命

  • 神々への奉仕

航海・案内

  • 椎根津彦

  • 八咫烏

各地で協力した人々

  • 宇沙都比古・宇沙都比売

  • 高倉下

  • 弟猾

  • 後に帰順した邇芸速日命

※人物の登場時期や立場は異なります。全員が日向から一緒に出発したという意味ではありません。

5. ここで注目したい歴史的な疑問

私が今回の調査で特に興味を持ったのは、神武東征がどれほどの規模の集団だったのかということです。

『古事記』や『日本書紀』には、登場人物や戦いの様子は書かれていますが、出発時の兵士の正確な人数や船の数、軍の編成表までは記されていません。

そのため、数百人だったのか、数千人だったのかということを、現在の資料だけで断定することはできません。

ただし、次のような点は注目できます。

  • 海を渡るための船団があった。

  • 航海を案内する人物がいた。

  • 大伴氏や久米部につながる軍事集団が登場する。

  • 各地で食料や宿泊場所の提供を受けている。

  • 途中で現地の有力者が協力したり、敵対したりしている。

こうした記述から、神武東征の物語は、皇族だけの移動ではなく、軍事・航海・祭祀など複数の役割を持つ人々が関わる集団の移動として描かれていることが分かります。

ただし、これらの記述をそのまま当時の実際の軍隊の編成とみなすことはできません。

6. 今回の調査で参考にした資料

さらに詳しく調べる場合は、次の資料が役立ちます。

私からの提案

今回の調査で、神武東征には面白いテーマが見つかりました。

それは、神武天皇一人の物語ではなく、兄弟、軍事集団、航海の専門家、祭祀に関わる人々が一緒になって進んだ物語ということです。

特に次の3人が面白いと思います。

  1. 五瀬命 — 神武とともに東征を始めた兄。どのような人物だったのか。

  2. 道臣命 — 大伴氏の祖先。東征軍の軍事的な中心人物だったのか。

  3. 大久米命と久米部 — 古代の軍事集団として、どのような役割を担っていたのか。

この3つを詳しく調べると、神武東征がどのような集団によって進められたのか、もっと具体的に見えてくると思います。


神武東征を考えるうえで、とても興味深い疑問がわいてきました。

なぜ神武天皇は、九州の日向(現在の宮崎県にあたる地域)から東へ向かったのでしょうか。

そもそも、日向には天孫降臨の神話があり、ニニギノミコトが天から降り立った場所として語られています。神武天皇もその子孫とされています。

それならば、神々の子孫が暮らす日向の土地で、そのまま国を治めてもよかったはずです。

それなのに、なぜわざわざ遠い大和を目指したのでしょうか。

『古事記』と『日本書紀』に書かれている内容、地理的な条件、古代の政治や社会の状況などから、考えられる理由をいくつか挙げてみます。

ここでは、文献に書かれていることと、現代の歴史的な推測を分けて考えてみましょう。

1. 天下を治めるための中心地を求めた


『古事記』には、神武天皇と兄の五瀬命が高千穂宮で相談した言葉として、次のように記されています。

何地に坐さば、平らけく天下の政を聞こしめさむ。猶東に行かむ。

現代語にすると、

「どこに住めば、天下を平和に治めることができるだろうか。やはり東へ行こうと思う」

という意味です。


ここから考えられるのは、日向という地域だけでなく、もっと広い範囲を治めるための政治の中心地を求めていたということです。

日向は九州の南東部に位置しています。もし九州からさらに東に勢力を広げていくのであれば、大和のような本州の中心部に近い場所を拠点にすることには、政治的な意味があったと考えられます。

2. 日向だけでは勢力を広げるのが難しかった可能性


次に考えられるのは、地理的な問題です。

日向は山地が多く、海岸沿いにも平野が広がる場所がありますが、九州の南東部という位置にあります。

当時の交通事情を考えると、そこから本州の広い地域を支配するには距離的な不利があったかもしれません。

例えば、

  • 九州南部だけでなく、瀬戸内海沿岸にも勢力を広げたい。

  • 交通や交易の中心となる場所を確保したい。

  • より多くの人々や集団と交流できる場所に拠点を移したい。

  • 広い地域をまとめるための政治的な中心をつくりたい。

こうした事情があった可能性があります。

ただし、日向が食料不足だったとか、生活が苦しかったという記録はありません。

あくまでも、地理的な条件から考えられる仮説です。

3. 瀬戸内海という交通の大動脈を利用できた


神武東征のルートを見てみると、日向から直接大和へ向かったわけではありません。

宇佐、筑紫、安芸、吉備と進み、瀬戸内海を通って大阪方面へ向かっています。

『古事記』には、それぞれの場所に滞在した期間まで記されています。

  • 筑紫の岡田宮:約1年間

  • 安芸の多祁理宮:約7年間

  • 吉備の高島宮:約8年間

これらは神話上の記述ですが、長期間滞在したという点は興味深いですね。

ここから考えられるのは、瀬戸内海沿岸の人々と関係を築きながら、東へ進んだという可能性です。

瀬戸内海は、島々に囲まれた比較的穏やかな海域が多く、古代の船による移動や交流に利用しやすい地形です。

つまり、東征のルートは単なる移動経路ではなく、各地の勢力との関係を築くための道だったのかもしれません。

4. 九州から大和へ勢力を移す政治的な動きだった可能性

ここからは、歴史的な仮説として考えてみます。

神武東征を、ある政治勢力が九州から近畿地方へ移動していった物語として解釈する考え方があります。

古代の日本には、現在のような統一国家が最初から存在していたわけではありません。

各地には、それぞれの有力者や集団が存在していたと考えられています。

そのような状況の中で、ある勢力が西から東へ移動し、最終的に大和を政治の中心としていったという歴史的な出来事が、神武東征の物語に反映されているのではないか、という考え方です。

この解釈には、九州から近畿への勢力移動を考える説などがあります。

ただし、神武天皇が実際にそのような軍事行動を行ったと証明されているわけではありません。神武天皇の実在性や東征の具体的な経過も、歴史学上の検証課題です。


5. 大和には、すでに大きな勢力が存在していた


神武東征の物語では、大和に到着した神武天皇たちの前に、長髄彦という有力者が立ちはだかります。

つまり、大和は誰もいない土地ではなかったのです。

すでに長髄彦という人物が勢力を持ち、神武天皇たちの進出を阻んでいました。

さらに、物語の最後には饒速日命が神武天皇に従うことになります。

この展開から考えると、神武東征は単に新しい土地を探す旅というだけでなく、すでに存在していた勢力との対立や協力を通して、大和の支配を確立していく物語でもあります。

歴史的な視点で考えれば、政治の中心地を移すには、そこにいる既存勢力との関係を解決する必要があったということです。

6. 天照大御神の子孫として、全国を治めるという神話的な使命


神武東征を理解するうえで、忘れてはいけないのが神話の世界です。

神武天皇は、天照大御神の子孫とされています。

そして、その祖先であるニニギノミコトは、天孫降臨によって日向の高千穂の地に降り立ったと伝えられています。

この神話の流れを考えると、神武天皇が東へ向かったのは、単に住む場所を変えるためではなく、天照大御神から続く神々の系統による国づくりを広げるためだった、という物語上の意味があります。

國學院大學の解説でも、神武東征を天照大御神の理想の国づくりを東へ広げる物語として説明しています。


また、東征の途中で五瀬命が、太陽に向かって戦うことの不利を語る場面もあります。

これは、神武天皇が太陽神の子孫であるという神話的な性格を強く表している場面です。

7. 後の大和王権が、自らの正統性を説明するための物語だった可能性


もう一つ、歴史を研究するうえで考えておきたいことがあります。

『古事記』は712年に、『日本書紀』は720年に編纂されました。

つまり、神武東征が起きたとされる時代と、これらの書物が作られた時代には大きな隔たりがあります。

そのため、神武東征の物語には、当時の出来事を伝える伝承だけでなく、後の大和王権が自分たちの支配の由来を説明するための意味も含まれていた可能性があります。

例えば、

  • 天照大御神から続く血統によって、天皇の正統性を示す。

  • 九州から大和へ進んだという物語によって、王権の起源を説明する。

  • 各地の神々や豪族を物語に登場させ、全国をまとめる王権の姿を描く。

こうした意味があったのではないかと考えられます。

これは、神武東征を歴史的な出来事としてだけではなく、古代国家が成立していく過程で作られた建国神話として見る考え方です。

8. 7つの可能性を整理してみる

今回挙げた理由を一覧にしてみましょう。

考えられる理由

内容

性格

① 政治の中心地

天下を治める場所を求めた

古事記に明記

② 地理的な条件

九州南部から広域を治める難しさ

仮説

③ 海上交通

瀬戸内海を通じた交流と移動

地理的考察

④ 勢力の移動

九州から近畿への政治勢力の移動

歴史的仮説

⑤ 大和の既存勢力

長髄彦などとの対立や協力

神話に記載

⑥ 神々の使命

天照大御神の子孫による国づくり

神話上の理由

⑦ 王権の正統性

大和王権の起源を説明する物語

歴史的解釈

私が特に注目したい3つのポイント

今回の調査から、特に重要だと思うのは次の3つです。

第一に、日向から大和へ政治の中心を移す必要があったという考え方。

古事記には、天下を平和に治めるために東へ行こうという言葉が残っています。これは物語の中で明確に示された動機です。

第二に、瀬戸内海を利用した勢力の拡大という考え方。

途中の土地に長期間滞在していることから、単なる移動ではなく、各地の人々との関係づくりが重要だった可能性があります。

第三に、神武東征が後の大和王権の成立を説明する物語だったという考え方。

これは神話と歴史を分けて考えるうえで、とても重要です。

参考資料

最後に、もう一つ面白い疑問があります。

神武天皇が日向を出発したとき、なぜ最初から大和を目指したのでしょうか。

実は、日向から東へ進む途中には、宇佐、筑紫、安芸、吉備という土地があります。そして、それぞれの土地には独自の人々や勢力が存在していました。

もしかすると、神武東征の物語は、九州から大和へ向かった一つの集団の移動だけではなく、古代日本の各地に存在した勢力が、どのように結びつき、やがて大和を中心とする政治体制が成立していったのかを考える手がかりになるのかもしれません。

コミミとしては、次にぜひ調べてみたいのは、**「神武東征以前の日向には、どのような人々が暮らし、どのような勢力が存在していたのか」**ということです。

ここを調べると、東征が始まる前の南九州の姿が、もう少し見えてくると思います。


これは、神武東征をさらに深く理解するために、とても重要な調査テーマです。

今回は、神武天皇が東征に出発する以前、つまり古代の日向(現在の宮崎県を中心とする地域)には、どのような人々が暮らし、どのような文化や勢力が存在していたのかを調べてみましょう。

特に注目したいのは、次の4つです。

  1. 日向には、神話の時代よりはるか以前から人々が暮らしていた。

  2. 稲作や農耕文化が広がり、地域ごとに異なる生活や社会が形成されていた。

  3. 熊襲(くまそ)や隼人(はやと)と呼ばれる人々が、後の歴史資料に登場する。

  4. 日向は、九州南部と瀬戸内海を結ぶ地理的な位置にあった。

ただし、神武東征の時代を考古学的に特定することは難しく、後世の文献に登場する熊襲や隼人を、そのまま神武東征当時の勢力と断定することはできません。

この区別を大切にしながら見ていきます。

神武東征以前の日向には、どのような人々が暮らしていたのか?

古代南九州の人々と文化、そして熊襲・隼人の謎

1. 日向には神話の時代より前から人々が暮らしていた


まず知っておきたいのは、神武天皇が東征したとされる時代よりも、はるか以前から日向には人々が暮らしていたということです。

宮崎県の考古学調査では、旧石器時代から人類の生活の痕跡が確認されています。

つまり、天孫降臨や神武東征の神話が登場する以前から、この土地には長い人間の歴史があったわけです。


当時の人々は、現在のような国や県という区分で暮らしていたわけではありません。

山や川、海の近くに集落をつくり、自然から食料を得ながら生活していました。

時代ごとに見てみましょう。

2. 縄文時代の日向の人々


縄文時代の人々は、狩猟や採集、漁労を中心に生活していました。

日向の土地には山も海もあり、食料を得る環境には恵まれた場所が多くありました。

考えられる生活は次のようなものです。

  • 山ではシカやイノシシなどを狩る。

  • 川や海では魚や貝を採る。

  • 木の実や植物を採集する。

  • 土器を使って食料を煮炊きする。

  • 集落をつくり、共同生活を営む。

この時代には、まだ後のような大規模な政治組織が存在したと確認できるわけではありません。

しかし、地域ごとに独自の文化や生活習慣が育っていたと考えられます。

3. 弥生時代になると稲作が広がる


次に注目したいのが弥生時代です。

この時代になると、稲作が広がり、人々の生活は大きく変わっていきます。

水田をつくり、米を育て、収穫した食料を蓄える生活が広がりました。

宮崎県内でも弥生時代の集落や農耕に関係する遺跡が確認されています。

さらに興味深いのは、弥生時代の終わりごろになると、宮崎平野を中心に「花弁状住居」と呼ばれる珍しい形の住居が現れることです。

これは、住居の内部に複数の間仕切りを設けた竪穴住居です。

全国的にも特徴的な住居形態として知られています。


ここで考えたいのは、日向の人々が単に自然の恵みを受けて暮らしていただけではなく、農耕を中心とした社会を形成し、独自の文化を発展させていたということです。

4. 地域の有力者や首長が登場する


弥生時代の後半になると、社会の構造にも変化が現れます。

宮崎県の調査では、弥生時代終末期の墓から大規模な墓群や鉄製武器の副葬が確認されています。


つまり、当時の日向には、すべての人々を一つにまとめる中央政府があったというよりも、地域ごとに有力者が存在し、それぞれの集団をまとめていた可能性があります。

ここは神武東征を考えるうえで重要なポイントです。

もし、日向から大和へ移動するような大きな集団が存在したとすれば、そこには人々をまとめる首長や、農業・交易・軍事などを担う人々がいた可能性があります。

ただし、これらの弥生時代の首長が神武天皇や東征の一行と直接つながっていたという証拠はありません。

5. 熊襲(くまそ)と呼ばれた人々


ここで登場するのが、熊襲という人々です。

熊襲は『古事記』や『日本書紀』に登場する、南九州に関係する人々として知られています。

特に日本書紀には、景行天皇や日本武尊による熊襲征討の物語が記されています。

熊襲については、一般に現在の熊本県南部から宮崎県、鹿児島県にかけての地域と関係づけられています。

しかし、熊襲が一つの統一された国家や民族だったのか、それとも複数の地域集団をまとめて呼んだ名称だったのかについては、慎重に考える必要があります。


また、熊襲という名前は、神武東征の物語における長髄彦のような人物と同じ勢力を指しているわけではありません。

熊襲が登場する征討伝承は、神武東征とは別の物語として扱う必要があります。

6. 隼人(はやと)と呼ばれた人々


熊襲と並んで、南九州の古代史を語るうえで重要なのが隼人です。

隼人は、古代の中央政権が南九州の人々を呼ぶ際に使った名称です。

『古事記』や『日本書紀』にも隼人に関係する伝承が登場します。

隼人については、後の奈良時代になると、朝廷への服属や反乱、朝貢などの記録が残されています。

特に720年には、南九州の隼人による反乱が起き、朝廷が軍を派遣したことが記録されています。

ここで大切なのは、隼人を神武東征の時代にそのまま当てはめないことです。

隼人という名称が歴史資料の中で明確に登場する時代と、神武東征の神話上の時代には大きな隔たりがあります。

また、熊襲と隼人が完全に同じ集団だったと断定することもできません。


7. 古墳時代の日向には、独自の文化と有力者が存在した


日向の古代史を考えるうえで、ぜひ注目してほしいのが西都原古墳群です。

現在の宮崎県西都市にある大規模な古墳群です。

宮崎県内では、小丸川、一ツ瀬川、大淀川の流域に古墳が集中しています。

特に西都原古墳群には、男狭穂塚・女狭穂塚などの大きな古墳があります。

古墳から出土した品々などから、日向の有力者がヤマト王権と政治的な関係を持っていたことがうかがえます。

さらに、南九州には地下式横穴墓という独特の墓もあります。

地面に縦穴を掘り、そこから横方向に墓室をつくるという特徴的な埋葬方法です。

宮崎県総合博物館では、この墓の構造や埋葬の様子を紹介しています。

こうした独自の墓制が存在したことからも、南九州には独特の文化を持った社会があったことが分かります。

ただし、西都原古墳群の主要な古墳は神武東征の物語上の時代より後のものです。神武東征の直接的な証拠として扱うことはできません。

8. 当時の日向にはどのような勢力があったのか?

ここまでを整理すると、次のようになります。

時代

日向の人々・社会

特徴

旧石器時代

狩猟採集民

石器を使った生活

縄文時代

狩猟・採集・漁労を営む集団

土器や集落の文化

弥生時代

農耕を営む集団

稲作、地域首長の登場

弥生時代終末期

地域の有力者

大規模な墓や鉄製武器

古墳時代

地域の首長・有力者

古墳文化と独自の墓制

7~8世紀

隼人などと呼ばれた人々

大和王権との政治的関係

この表を見ると、日向は決して人の少ない未開の土地ではありません。

長い時間をかけて人々が暮らし、農耕を行い、地域独自の文化を築いてきた土地だったことが分かります。

9. では、神武東征の時代の日向はどのような場所だったのか?


ここで、今回の調査の中心に戻りましょう。

神武天皇が東征を始めたとされる日向には、どのような勢力が存在していたのでしょうか。

実は、これを正確に説明することは難しいのです。

理由は、神武東征が神話・伝承として記録されている一方で、考古学的に神武天皇の時代や出発地点を特定できる証拠が見つかっていないためです。

また、現在の宮崎県と、古代の「日向」の範囲は必ずしも一致しません。

古代の日向は、現在の鹿児島県の一部を含む広い地域と関係しており、713年に大隅国が分けられるなど、後の行政区分の変化もありました。


したがって、神武東征以前の日向について考える場合には、宮崎県だけではなく、鹿児島県や熊本県を含む南九州全体を視野に入れる必要があります。

10. 今回の調査から見えてきたこと

今回、私が特に注目したのは、日向が単なる神話の舞台ではなく、長い歴史を持つ地域だったということです。

そこには、

  • 狩猟や採集を行っていた人々

  • 海や川で漁業を営む人々

  • 稲作を広めた農耕民

  • 地域をまとめる首長や有力者

  • 独自の文化や埋葬方法を持つ集団

  • 後の文献に登場する熊襲や隼人と関係する人々

など、時代によって異なる社会が存在していました。

神武東征の物語が生まれた背景には、こうした南九州の長い歴史があったのかもしれません。

ただし、これらの人々が一つの勢力として神武天皇に従っていたと考える証拠はありません。

神話と考古学の両方から考えることで、日向という土地の歴史が少しずつ見えてきます。

参考資料

今回の調査で参考になる資料を紹介しておきます。

  1. 宮崎県史・通史編各巻の概要 — 旧石器時代から古墳時代までの宮崎県の歴史を調べる入口です。

  2. 宮崎県の歴史・飛鳥・奈良・平安時代 — 日向神話や古墳文化、隼人について紹介されています。

  3. 宮崎県の歴史・古墳時代 — 西都原古墳群や地下式横穴墓について解説されています。

  4. デジタル宮崎県史・古代2 — 熊襲、隼人、日向神話、神武東征をさらに詳しく調べられる資料です。

  5. 宮崎県の考古学調査資料 — 弥生時代の住居や墓、地域首長の登場について記されています。

次に調べてみたいこと

今回の調査を通じて、さらに面白い疑問が出てきました。

それは、神武天皇が東征を始めたとされる日向の高千穂と、現在の宮崎県や鹿児島県に残る古代の遺跡は、どのような関係にあるのか? ということです。

特に次の3つは、深く調べる価値があると思います。

  • 天孫降臨の地とされる高千穂は、実際にはどこだったのか。

  • 南九州の熊襲と隼人は、どのような生活や文化を持っていたのか。

  • 神武東征の物語には、南九州から近畿へ移動した古代の人々の記憶が残されているのか。

この3つを掘り下げると、神話の世界と考古学で分かっている南九州の歴史を、より具体的に比較できると思います。


今回のテーマは、これまで調べてきた神武東征の中でも、特に面白いところだと思います。

実は、宮崎県と鹿児島県には、神武東征の物語を考えるうえで興味深い古代遺跡がいくつも残っています。

そして、調べてみると一つの重要なことが分かります。

神武東征の物語に登場する高千穂と、その周辺で実際に発見されている古代の集落や遺跡は、必ずしも同じ時代のものではありません。

しかし、遺跡を年代順に並べてみると、南九州で人々が暮らし、文化を育て、地域の有力者が現れ、やがて大和との交流が生まれていった様子が見えてきます。

今回は、宮崎県北部の高千穂町から、霧島市、宮崎平野、西都原、そして鹿児島県の古墳群まで、地理的につなげて考えてみましょう。

神武東征の出発地・日向高千穂と南九州に残る古代遺跡の関係

1. まず、高千穂には2つの有力な伝承地がある


宮崎県高千穂町

西臼杵郡・くしふる峰周辺

宮崎・鹿児島県境の高千穂峰

霧島連山・高原町周辺

最初に整理しておきたいのが、高千穂という名前です。

天孫降臨の地については、主に2つの候補があります。

  • 宮崎県西臼杵郡高千穂町のくしふる峰や二上山周辺。

  • 宮崎県高原町と鹿児島県霧島市の境界にある霧島連山の高千穂峰。

この2つは、かなり離れた場所にあります。

『古事記』には「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」と記されています。一方、『日本書紀』には「日向の襲の高千穂峰」という表現があります。

國學院大學の古典文化学事業でも、両方の地域が比定地として紹介されています。


つまり、現在の宮崎県高千穂町だけに限定して考えるのではなく、霧島山周辺も含めて調べる必要があるのです。

2. 宮崎県高千穂町には弥生時代の集落があった


ここで、非常に興味深い遺跡があります。

それが、高千穂町にある「神殿遺跡」です。

この遺跡では、弥生時代後期から終末期にかけての竪穴住居跡が8基確認されています。

さらに、注目したい出土品があります。

  • 弥生土器

  • 石包丁

  • 石器

  • 青銅鏡の破片

特に青銅鏡の破片は、内行花文鏡と推定されています。

山間部の小さな集落から青銅鏡の破片が見つかったというのは興味深いですね。

青銅鏡は祭祀などに使われた可能性が考えられています。


また、高千穂町の古城遺跡では、弥生時代中期末から後期にかけての住居跡が25軒確認されています。

鉄製の矢じりや碧玉製の管玉なども出土しています。

このことから、高千穂町周辺には、神武東征の物語で語られる時代よりも前から、人々が集落をつくり、生活していたことが分かります。

また、山間部であっても、外部との交流や祭祀に関係する文化が存在していた可能性があります。

3. 霧島市の上野原遺跡は、さらに古い歴史を持っている


次は、鹿児島県霧島市にある「上野原遺跡」です。

ここは、南九州の古代史を調べるうえで、ぜひ知っておきたい場所です。

発掘調査によって、約10,600年前の縄文時代早期の集落跡が確認されています。

その規模も大きく、52軒の竪穴住居跡を中心とする集落が見つかっています。

また、調理に使われたと考えられる施設や、さまざまな土器・石器も発見されています。


さらに、この遺跡は縄文時代だけではありません。

その後も弥生時代や古墳時代に人々が生活していた痕跡が見つかっています。

霧島市の資料によると、約2,400年前の弥生時代中期から後期、さらに約1,600年前の古墳時代にも遺跡や遺物が確認されています。


ここで注目したいのは、霧島という地域が、非常に古い時代から人々の生活の場だったということです。

ただし、上野原遺跡の約10,600年前の集落と神武東征を直接結びつけることはできません。

この遺跡が示しているのは、神話よりはるか以前から、南九州に豊かな生活文化が存在していたということです。

4. 宮崎平野には大きな勢力が存在していた


次に注目したいのが、宮崎市にある「生目古墳群」です。

ここは、南九州の古代勢力を考えるうえで重要な場所です。

生目古墳群は、古墳時代前期から中期にかけて築かれた古墳群で、100メートルを超える前方後円墳が複数存在します。

宮崎市の資料では、特に古墳時代前期の生目古墳群は、南九州の首長墓群の中でも突出した存在と説明されています。


これは何を意味するのでしょうか。

大きな古墳を造るには、多くの人々を動員する力が必要です。

石や土を運び、墓を築き、祭祀を行うためには、相当な社会的組織が必要だったと考えられます。

つまり、古墳時代の宮崎平野には、地域の人々をまとめる有力な首長が存在していたことがうかがえます。

ただし、生目古墳群が栄えた時代は、神武東征の物語上の時代とは一致しません。ここは時代を分けて考える必要があります。

5. 西都原古墳群には、さらに大きな古代勢力の姿が見える


宮崎県西都市には、全国的にも有名な「西都原古墳群」があります。

ここには300基を超える古墳が広がっています。

築造された時期は、おおむね3世紀末から7世紀にかけてです。

特に注目したいのが、男狭穂塚(おさほづか)と女狭穂塚(めさほづか)です。


この2つは、西都原古墳群を代表する巨大古墳です。

男狭穂塚は日本最大級の帆立貝形古墳、女狭穂塚は九州最大級の前方後円墳として知られています。


ここから分かるのは、古墳時代の宮崎には、非常に大きな権力と組織力を持った地域勢力が存在していたということです。

また、古墳の形や副葬品には、大和を中心とする古墳文化とのつながりを考える手がかりがあります。

つまり、南九州は大和から遠く離れた孤立した地域ではなく、古代の政治や文化の交流に参加していた地域だったと考えられます。

6. 鹿児島県にも独自の古墳文化があった


鹿児島県にも、興味深い古墳が残っています。

その一つが、大崎町の横瀬古墳です。

横瀬古墳は大規模な前方後円墳で、鹿児島県の古墳文化を代表する遺跡の一つです。

鹿児島県の黎明館の解説によると、志布志湾沿岸部や薩摩半島北部西岸には、円墳や前方後円墳が築かれています。

これらは、初期の大和政権とのつながりを意味すると考えられています。


一方、南九州には、全国的にも特徴的な墓の形式があります。

それが地下式横穴墓です。


地面に穴を掘り、そこから横方向に墓室を造るという独特の形式です。

このような墓が宮崎県や鹿児島県に広がっていることは、南九州に独自の文化圏があったことを考えるうえで重要です。

つまり、南九州の人々は大和の文化を受け入れるだけではなく、独自の文化も育てていたということです。

7. 遺跡を地図で見ると、南九州の歴史がつながってくる

ここまで紹介した遺跡を地図で整理してみましょう。

地図を見ると、山間部、盆地、平野、海岸沿いなど、南九州のさまざまな場所に遺跡が広がっていることが分かります。

ここから考えられるのは、南九州には一つの中心地だけが存在していたのではなく、複数の地域にそれぞれの生活圏や有力者が存在していたということです。

そして、時代が進むにつれて、各地域の勢力が大和を中心とする政治的なつながりを持つようになっていったと考えられます。

8. 神武東征と遺跡の関係を年代で比較する

ここが今回の調査で最も重要な部分です。

遺跡の年代と神武東征の物語を比較すると、次のようになります。

時代・年代

南九州で確認できること

約10,600年前

上野原遺跡に大規模な縄文集落

弥生時代

高千穂町などに集落が形成される

弥生時代終末期

神殿遺跡などに青銅鏡片や鉄器が現れる

3世紀末~4世紀

生目古墳群などに大規模古墳が築かれる

4~7世紀

西都原古墳群などが発展する

3世紀末~7世紀

鹿児島にも多様な古墳文化が広がる

ここで注意したいのは、神武東征の物語には、考古学的に確定した年代がないことです。

そのため、これらの遺跡を神武天皇が実際に暮らした場所や東征の出発拠点だったと断定することはできません。

しかし、南九州に古くから人々が暮らし、弥生時代には集落や地域文化が発展し、古墳時代には大きな勢力が存在していたことは、考古学的な資料から確認できます。

9. 私が今回の調査で考えたこと

今回の調査で、私が特に興味を持ったのは、神武東征の物語に登場する日向という土地が、単なる神話の舞台ではなかったということです。

南九州には、縄文時代から続く長い歴史があり、弥生時代には山間部にも集落がつくられ、さらに古墳時代になると、宮崎平野や鹿児島にも大きな勢力が現れています。

そして、南九州には大和とは異なる独自の文化も存在していました。

ここから一つの疑問が生まれます。

もしかすると、神武東征という物語の背景には、古代の南九州で形成された人々の集団や、地域間の交流、そして政治勢力の移動といった歴史的な記憶が含まれているのではないでしょうか。

これは、まだ証明された歴史ではありません。

しかし、神話と考古学の両方を調べていくと、単なる伝説として片付けるのではなく、古代の人々がどのように暮らし、どのように移動し、どのような社会をつくっていったのかを考えるきっかけになります。

10. 次に調べてみたい重要な疑問

今回の調査から、さらに3つのテーマが浮かび上がってきました。

1. 南九州の古代勢力と大和王権は、いつ頃から交流していたのか?

古墳の形や副葬品、出土品から交流の時期や内容を調べる。

2. 熊襲や隼人と呼ばれた人々は、どのような文化を持っていたのか?

地下式横穴墓や成川式土器などから、独自の文化を調べる。

3. 神武東征の物語に、古代の人々の移動の記憶が残されている可能性はあるのか?

九州から瀬戸内海を経て大和へ進むルートと、考古学的な交流の痕跡を比較する。

参考資料

コミミの古代史調査として、次のテーマがあります。

それは、**「熊襲と隼人は、神武東征の時代にはすでに存在していたのか? 南九州の人々と大和王権の関係」**です。

これは神武東征を考えるうえでも、非常に重要な問題です。

神武東征の物語と、その後の熊襲・隼人の征討伝承を比較すると、南九州と大和の関係がどのように変化していったのかを考えることができます。

熊襲と隼人は、神武東征の時代に存在していたのか?

南九州の人々と大和王権の関係

神武東征を南九州の歴史から考えると、興味深い疑問が出てきます。

それは、神武天皇が日向から東へ向かったとされる時代、現在の宮崎県や鹿児島県には、どのような人々が暮らしていたのかということです。

『古事記』や『日本書紀』には、神武東征の物語だけでなく、熊襲(くまそ)や隼人(はやと)といった南九州の人々につながる名前も登場します。

ただし、ここで注意したいことがあります。神武東征は神話・伝承を含む物語であり、実際に起きた年代を確定できません。一方、熊襲や隼人について史料で確認できる時代にも限りがあります。

そのため、「神武東征の時代に熊襲や隼人がいた」と、最初から断定することはできません。史料に登場する時代と、考古学から分かる南九州の暮らしを分けて見ていきましょう。

1. 熊襲は神武東征の時代にいたのか?

まず熊襲についてです。

『古事記』には、国生みの場面で「熊曾国(くまそのくに)」という名前が登場します。熊曾国は、筑紫島(九州)の四つの地域の一つとして描かれています。

國學院大學の解説によると、この熊曾国は南九州に位置したと考えられています。ただし、どこからどこまでを指したのかは、現在もはっきりしていません。肥後国の球磨地方と、大隅国の贈於(そお)地方を結びつける説などがあります。


一方、『日本書紀』には、景行天皇の時代に熊襲を討ったという物語が記されています。熊襲の有力者として、厚鹿文(あつかや)や迮鹿文(せかや)などの名も出てきます。

ここで重要なのは、熊襲の征討が語られるのは、神武天皇の東征とは別の物語の中だということです。神武東征の時代に、熊襲という集団が現在の史料で確認できるわけではありません。

また、『古事記』と『日本書紀』は、それぞれ712年、720年に編纂された書物です。そこに記された遠い昔の出来事を、そのまま同時代の記録と考えることはできません。


2. 隼人はいつごろ登場するのか?

次に隼人です。

隼人という名前は、熊襲とは少し違った形で史料に登場します。

『古事記』『日本書紀』の神話には、海幸彦・山幸彦の物語があります。この物語では、海幸彦が隼人の祖先として位置づけられています。

ただし、これは神話上の祖先伝承です。実際の隼人という人々が、その時代から同じ名前で暮らしていたことを証明するものではありません。

歴史上の人々として隼人の記事が具体的になるのは、主に7世紀後半以降です。大和の朝廷に貢ぎ物を納めたり、宮廷で歌や舞を披露したりする姿が記録されています。


つまり、史料から見ると、熊襲という名前が目立つ時代の後に、隼人という呼び名が南九州の人々に使われるようになっていったように見えます。

ただし、熊襲と隼人がまったく同じ集団だったのか、別の集団だったのかについては、研究上も議論があります。熊襲の後身が隼人になったという見方もありますが、単純に名前だけが変わったと断定することはできません。


3. 神武東征のころ、南九州にはどんな人々が暮らしていたのか?

ここからは、神話の名前ではなく、考古学の資料から考えてみましょう。

神武東征が行われたとされる時代を正確に決めることはできませんが、南九州ではそれよりはるか以前から、人々が集落をつくり、独自の生活や文化を営んでいました。

鹿児島県霧島市の上野原遺跡では、約1万年前にさかのぼる縄文時代の集落跡が発見されています。また、弥生時代にも南九州各地に集落がありました。


さらに、古墳時代の南九州には、独自の文化が見られます。


成川式土器

鹿児島県を中心に分布した、南九州に根ざした土器です。中央の地域とは異なる生活文化があったことを示す資料の一つです。


地下式横穴墓

地面に穴を掘り、横方向に墓室を設ける南九州独特の墓制です。地域によって異なる葬送の習慣があったことが分かります。


横瀬古墳

鹿児島県大崎町にある大型の前方後円墳です。南九州にも大きな権力を持つ首長が存在し、大和政権とのつながりを持った地域があったことを考える手がかりになります。

鹿児島大学の橋本達也氏の研究では、成川式土器や南九州独自の墓制を、安易に「隼人の文化」と結びつけることに注意が促されています。

つまり、古墳時代の遺跡から出てきた土器や墓を見て、それがそのまま熊襲や隼人のものだったと決めつけることはできないのです。

鹿大博物館+1

これは大切な点です。

南九州には、中央の大和とは異なる文化を持ちながら、独自の社会を築いていた人々が暮らしていたと考えられます。

4. 南九州と大和王権は、どのような関係だったのか?

南九州と大和王権の関係は、最初から一方が他方を支配していたという単純なものではありません。

時代によって、交流したり、政治的につながったり、時には武力で争ったりする関係だったと考えられます。

大きく分けると、次のような流れになります。

  1. 古墳時代前期~中期(おおむね3~5世紀)
    南九州にも有力な首長が現れ、大型古墳が築かれました。鹿児島県内にも大和政権とのつながりをうかがわせる古墳があります。
    ただし、古墳があることだけで、その地域が完全に大和の支配下にあったとはいえません。
    鹿児島県+1

  2. 6~7世紀
    大和王権の影響が南九州にも広がっていきます。南九州の人々は、朝廷との関係を深める一方、地域の首長や独自の社会を保っていたと考えられます。
    この時代には、隼人という呼び名が史料に具体的に現れるようになります。
    コトバンク+1

  3. 7世紀後半~8世紀
    大和王権は律令制度によって、全国を中央から統治する体制を整えようとしました。南九州にもその支配が及び、隼人の人々にも服属や朝廷への奉仕が求められるようになります。
    鹿児島県上野原縄文の森+1

  4. 720年~721年
    大隅・薩摩の隼人が朝廷に対して大規模な抵抗を起こしました。朝廷は大伴旅人らを派遣して鎮圧し、この戦いによって南九州の支配はさらに進められていきます。
    鹿児島県+1

720年の戦いは、南九州の歴史を考えるうえで重要な出来事です。

鹿児島県の解説では、朝廷軍は1万人を超える規模で、戦いは翌年まで続いたとされています。隼人の側も強く抵抗したと伝えられています。

鹿児島県+1

この出来事を見ると、南九州の人々が単に大和王権に従っていたのではなく、自分たちの土地や生活を守ろうとしていたことがうかがえます。

5. 熊襲と隼人は、同じ人々だったのか?

ここが今回の調査で、特に興味深いところです。

熊襲と隼人は、どちらも南九州の人々を指す言葉として使われています。しかし、両者の関係はまだ完全には解明されていません。

考えられる見方としては、次のようなものがあります。

見方

内容

熊襲の後身が隼人になった

熊襲と呼ばれた人々が、後の時代に隼人と呼ばれるようになったという考え

異なる集団だった

南九州に複数の集団が存在し、時代によって異なる呼び名が使われたという考え

政治的な呼び名だった

大和王権が南九州の人々を認識し、支配していく過程で呼び名が変化したという考え

この問題を考えるうえで参考になるのが、鹿児島大学の橋本達也氏による研究です。

同氏は、熊襲や隼人という言葉を、古墳時代の南九州の文化や民族にそのまま当てはめることには問題があると指摘しています。特に隼人という呼び名は、7世紀後半の律令国家の形成と関係づけて考える必要があるとしています。

鹿大博物館

つまり、熊襲と隼人という名前は、単なる民族の名前としてだけでなく、中央政権と南九州の人々との政治的な関係を考えるうえでも重要なのです。

6. 神武東征と熊襲・隼人の関係を考える

ここまでの内容を神武東征に戻して考えてみます。

『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇は日向から東へ向かったとされています。

その日向を含む南九州には、長い歴史を持つ集落や、独自の文化を持つ人々が暮らしていました。

しかし、神武東征の物語に登場する人々を、そのまま後世の熊襲や隼人と同じ集団だと考えることはできません。

むしろ、私が注目したいのは、南九州には大和とは異なる文化や政治的なまとまりを持つ人々が暮らしていたという点です。

その後、大和王権が勢力を広げるにつれて、南九州の人々との関係も変化していきました。

最初は交流や政治的なつながりがあり、やがて支配を受け入れる人々もいれば、抵抗する人々もいたのでしょう。

そして、8世紀初めの隼人の抵抗へとつながっていきます。

神武東征が実際にどのような出来事だったのかは、今も確定できません。しかし、神話の舞台となった日向や南九州の歴史を調べていくと、そこには大和とは異なる文化を持った人々の長い歴史があったことが分かります。

今回の調査で参考にした資料

次に調べると面白いテーマは、「なぜ大和王権は、南九州の隼人を支配しようとしたのか?」です。

南九州には、海上交通や南方との交流、独自の文化がありました。大和王権にとって、この地域がどのような意味を持っていたのかを調べると、神武東征から奈良時代までの歴史が、さらに一本の線でつながって見えてくると思います。

なぜ大和王権は、南九州の隼人を支配しようとしたのか?

南九州の地理・交易・政治から考える

南九州の歴史を調べていくと、ひとつ大きな疑問が出てきます。

それは、なぜ大和王権は、遠く離れた南九州に暮らす隼人の人々を、自分たちの支配下に置こうとしたのか、ということです。

現在の鹿児島県や宮崎県南部は、当時の大和の中心地から見ると、かなり遠い地域です。山や海に隔てられ、独自の文化や生活を営む人々が暮らしていました。

それでも大和王権は、7世紀から8世紀にかけて南九州への支配を強めていきます。

その理由は、単に土地を広げたかったから、というだけでは説明できません。南九州の地理的な重要性、海上交通、政治的な統一、そして律令国家の成立という、いくつもの事情が重なっていたと考えられます。

1. 南九州を支配することは、九州全体を押さえることにつながった


まず考えられるのが、地理的・軍事的な重要性です。

南九州は、九州の南端に位置し、東シナ海や太平洋に面しています。大隅半島、薩摩半島、さらに種子島や屋久島などの島々にもつながる地域です。

大和王権にとって、九州北部だけでなく南部まで支配を広げることは、九州全体を政治的にまとめるうえで重要だったと考えられます。

また、南九州から南の島々へ向かう海上交通を考えるうえでも、この地域は無視できない場所でした。

ただし、南九州の海上交通を掌握することが隼人支配の直接の目的だったと断定できる史料はありません。これは地理的な条件から考えられる戦略上の意味です。

2. 税金や土地を管理するためだった


実は、こちらが歴史資料から確認しやすい重要な理由です。

大和王権は7世紀後半から8世紀にかけて、律令制度という全国を統一的に管理する仕組みを整えていきました。

律令制度では、土地や人々を戸籍・計帳などで把握し、税や労役を課すことが基本になります。

ところが、南九州には、以前から地域の首長や共同体を中心に暮らしていた人々がいました。

そこへ中央から役人を派遣し、土地や人々を登録し、税を納めさせる仕組みを導入しようとしたのです。

つまり、大和王権が求めたのは、地図の上で領土を広げることだけではありません。

南九州の土地と人々を、中央政府の行政制度に組み込むことだったと考えられます。

広島大学リポジトリ+2

3. 702年と713年、薩摩国と大隅国が設置された


この動きは、具体的な年代にも表れています。

年代

出来事

702年

薩摩国が設置され、戸籍などの整備が進められる

713年

日向国から四郡を分けて大隅国が設置される

714年

豊前国から人々を移住させ、大隅の統治を進める

720年

隼人の大規模な抵抗が起き、朝廷軍が派遣される

鹿児島県の資料によると、713年に大隅国が設置された際、朝廷は豊前国から約200戸の人々を移住させました。

その目的は、隼人の人々に法令や新しい統治の仕組みを広めることでした。

移住先は、現在の霧島市国分府中周辺と推測されています。

鹿児島県+1

これは、単に役人を一人派遣するような話ではありません。

別の地域から人々を移住させ、役所を置き、土地の管理を進めようとしたのです。

それまでの南九州の社会にとっては、大きな変化だったでしょう。

4. 720年、隼人の人々が大きく抵抗した


そして、720年に大きな事件が起きます。

『続日本紀』によると、養老4年、大隅国の長官である陽侯史麻呂が殺害され、朝廷に対する隼人の抵抗が大きな戦いへと発展しました。

朝廷は大伴旅人を将軍として軍を派遣します。

戦いは翌721年まで続きました。


ここで注目したいのは、なぜ隼人が抵抗したのかということです。

朝廷側の記録では、隼人は命令に従わない人々として描かれています。しかし、これは朝廷側から見た表現です。

隼人の側から考えると、次のような変化が起きていました。

  • それまでの地域の首長や共同体の力が弱められる。

  • 中央から役人が派遣される。

  • 土地や人々が中央の制度によって管理される。

  • 税や労役など、新しい負担が生まれる。

  • 他国から移住してきた人々が地域に定住する。

こうした変化が、隼人の抵抗につながった可能性があります。

ただし、720年の戦いの原因を税だけに絞ることはできません。地域の政治的な自立や首長の権限、国府の設置など、複数の問題が関係していたと考えられます。

霧島市公式サイト+2

5. 大和王権は、隼人の力も必要としていた


もう一つ、興味深い事実があります。

大和王権は隼人を支配しようとした一方で、隼人の人々が持つ独自の文化や技術を、宮廷の儀式にも取り入れていました。

國學院大學の解説によると、隼人は宮廷の警護をしたり、儀式の場で独特の声を発したり、隼人舞などを披露したりしていました。

これは単なる芸能ではなく、天皇の権威を示す宮廷儀礼の一部でもありました。


つまり、大和王権は隼人を排除するだけではなく、彼らを朝廷の仕組みに取り込み、その独自性を利用しようとしていた面もあったのです。

ここは、南九州と大和の関係を考えるうえで、とても面白いところです。

6. 最終的に南九州は大和王権の制度に組み込まれていった

720年の戦いの後も、朝廷による南九州の統治は続きました。

薩摩国と大隅国には役所が置かれ、律令制度が少しずつ浸透していきます。

9世紀になると、隼人の朝貢制度も転換し、南九州はほかの地域と同じような行政制度に組み込まれていきました。


薩摩川内市には、8世紀後半に建立された薩摩国分寺の跡が残っています。

これは、南九州に中央の政治や仏教文化が広がっていったことを示す遺跡の一つです。


まとめ:大和王権が南九州を支配しようとした理由

今回の調査をまとめると、次の4つが重要になります。

  1. 領土と安全保障:九州全体を政治的にまとめ、南方への交通路を押さえること。

  2. 行政と税の管理:土地や人々を戸籍に登録し、律令制度を適用すること。

  3. 政治的な統一:地域の首長が持つ独自の権限を、中央の統治体制に組み込むこと。

  4. 隼人の力の活用:宮廷の警護や儀式などに、隼人の人々を取り込むこと。

この中でも、史料から特にはっきり読み取れるのは、土地と人々を中央の行政制度に組み込もうとした動きです。

そして、そこに暮らしていた隼人の人々にとっては、長く続いてきた地域の社会や生活が大きく変わることでもありました。

そのため、抵抗が起きたと考えられます。

コミミの古代史調査として、もう一つ気になること

ここまで調べると、次の疑問が出てきます。

大和王権が南九州を支配する前、隼人の人々はどのような政治組織を持ち、誰が地域を治めていたのでしょうか?

大和のような大きな王宮があったのか、それとも小さな首長たちが地域ごとにまとまっていたのか。

これは、神武東征の時代の日向を考えるうえでも、重要なテーマになります。


神武東征 ~東の空に国を拓く~

作詞 作曲 Komimi

はるか昔
日向の高千穂
天つ神の血を受け継ぐ者たちが
新たな国を求めて立ち上がった

その名は、カムヤマトイワレビコ
後の神武天皇

東の空に、まだ見ぬ未来を求めて
長い旅が始まる


高千穂の峰に 朝日が昇る
日向の大地に 風が吹く
兄のイツセと 弟たちは
新たな国を 夢に見た

この地より東へ 進むべし
天下を治める その場所へ
海を越えて 山を越えて
運命の道を 歩み出す


青き海原 白き波
遠く霞むは 東の空
まだ見ぬ大地に 何が待つ
神々の導きを 胸に抱いて


進め 進め 東の空へ
天つ神の願いを胸に
幾多の嵐が 行く手を阻んでも
この命 尽きるまで

進め 進め 光の先へ
新たな国を 築くため
日向の風を 背中に受けて
神武の旅は 続いてゆく


浪速の海に 船を進め
河内の地には 強き敵
長髄彦の 放つ矢が
兄イツセの命を 奪ってゆく

傷ついた兄は 空を仰ぎ
太陽に向かい 戦ったことを悔いる
南へ回り 再び挑む
その言葉を胸に 旅立った


青き熊野の 深き森
荒れ狂う波と 険しき道
神の力に 倒れし兵たち
それでも希望は 消えはしない


進め 進め 東の空へ
失われた命を胸に
深き闇さえ 越えてゆけ
この道の先に 朝日は昇る

進め 進め 光の先へ
仲間とともに 切り拓け
八咫烏が 導く道を
神武の旅は 続いてゆく


高倉下の 神剣が
眠れる力を 呼び覚ます
八咫烏よ 空を舞え
迷える者を 導きたまえ

熊野の山を 越えてゆく
吉野の川を 渡ってゆく
幾つもの命 幾つもの願い
大和の大地へ つながってゆく


進め 進め 大和の地へ
長き旅路の その果てに
幾多の戦い 幾多の別れ
新たな時代が 幕を開ける

進め 進め 東の空へ
神々の願いを その胸に
日向から始まる 遠い物語
神武の名は 歴史に刻まれる


日向を発ち
海を越え、山を越え
幾多の戦いを経て
ついに大和の地へ

その物語は
『古事記』と『日本書紀』に記され
今もなお、語り継がれている

神武東征
それは、遠い昔の
国づくりの物語


コメント